はじめよう あなただけの個人向け国債
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国債の仕組みについて
国債は国の機関である財務省が発行を担当しています。
国債の発行計画は、翌年度の国家予算の財務省原案が提出される際に発表されます。
又、国債の販売は証券会社や銀行、郵便局が行っています。
株の都市建設政策の中でもとりわけ重要視されたのはセレウコス朝の中核地域であったシリアであった。この地方には、首都アンティオキア(オロンテス河畔のアンティオキア)、軍事の中心となったアパメア(オロンテス河畔のアパメア)、港湾都市セレウキア(ピエリアのセレウキア)、そしてラオディキア(海に臨むラオディキア)など多数の都市が建設された。上に上げた4都市は、四大都市とよばれ、シリアに建設された都市の中でもとりわけ重要視された。
都市建設の中心をなしたのは、ギリシア的なポリスの建設よりはカトイキアと呼ばれた軍事植民地の建設であった。移住する多くのギリシア人達にとって、自分達の居住すべき土地は当然ポリスでなくてはならなかった。しかし、大規模都市建設は負担が大きく、また領土内の安定を重要視したセレウコス朝は将来のポリスへの昇格を前提としつつ、より簡易なカトイキアの建設を多数行った。カトイキアもまた、しばしば既存の都市を利用して建設されたといわれている。
株でも最も有名なのはドゥラ・エウロポスである。この都市は西の中心である首都アンティオキアと、東の中心であるチグリス河畔のセレウキアを結ぶ「王の道」の中間に、警備、および補給拠点として建設された。この都市についてセレウコス朝時代のことはほとんど知られていないが、その立地条件はカトイキアの性格の一端を示す。
ギリシア人とマケドニア人(以下一括してギリシア人と呼ぶ)の移住はアケメネス朝時代から散発的に始まっていたが、アレクサンドロスの征服とセレウコス朝の時代にはいよいよ本格的になった。ギリシア人とそれ以前から各地に住んでいた人々は、かなり明確に区別されていた。チグリス河畔のセレウキアではギリシア人とバビロニア人は別個の政治共同体を形成しており、互いに対立していたと記録されている。他の多くの都市でも、ギリシア人の政治共同体とは別に現地人の政治共同体が形成されている例が多かった。
ipoによって、セレウコス朝は基本的にはギリシア人(マケドニア人)の王朝であると見なされていたし、事実セレウコス朝の主導権を握ったのはギリシア人であった。政治的理由から対等の立場を認められた現地人の共同体もあった(例えばストラニキアにおけるカリア人など)ものの、いくつかの都市においては明らかに現地人が隷属民として扱われていたし、バビロニア人など比較的強力な集団もギリシア人に対して劣勢であったとされている。ただし、セレウコス朝領内のギリシア人人口は全体から見れば小数であり、上述した都市建設政策によって、ギリシア人都市網を作り、それによって数の不足を補い統治を安定させようとしたといわれている(ただし当時の都市についての研究は万全とは言い難く、推論の域を出るものではない)。
個人向け国債としてはギリシア人達が圧倒的多数、かつ多様を極める現地住民の意向を完全に無視して行動するのは不可能であったし、セレウコス朝国家自体も現地人の関与を受けないわけにはいかなかった。少なくても軍の中級以下の指揮官には各地の現地民出身の将軍が用いられた例は少なくないし、一般兵員においてはギリシア人だけでは到底数が足りなかった。アンティオコス3世が編成したファランクスの構成員の過半数がオリエント各地の傭兵によって占められていたという研究もある。しかし、高級官吏や軍指揮官の地位に非ギリシア人が任用されることはやはり稀なことであった。
いわゆる十六大国の中でも最も有力であったマガダ国ではナンダ朝が支配を確立していた。しかしナンダ朝はシュードラ(カーストの中で最下位)出身であったことからバラモン教の知識人達によって忌避されていた。こうした状況下にあってマガダ国出身の青年チャンドラグプタがナンダ朝に反旗を翻して挙兵した。これに対しナンダ朝は将軍バッサダーラを鎮圧に当たらせたが、チャンドラグプタはこれに完勝し、紀元前317年頃に首都パータリプトラを占領してナンダ朝の王ダナナンダを殺し新王朝を成立させた。これがマウリヤ朝である。
資産運用の支配を確立したチャンドラグプタはインダス川方面の制圧に乗り出した。インダス川流域はマウリヤ朝の成立より前にマケドニアの英雄アレクサンドロス大王によって制圧されていたが、アレクサンドロスが紀元前323年に死去すると彼の任命した総督(サトラップ)達の支配するところとなっていた。
紀元前305年、ディアドコイ戦争の最中、アレクサンドロスの東方領土制圧を目指したセレウコス1世がインダス川流域にまで勢力を伸ばした。チャンドラグプタはその兵力を持ってセレウコス1世を圧倒して彼の侵入を排し、セレウコス朝に4州の支配権を認めさせてインダス川流域からバクトリア南部にいたる地域に勢力を拡大した。これが直接的な戦闘の結果であるのかセレウコス1世が戦わずしてマウリヤ朝の領域を認めたのかについては諸説あり判然としない。
紀元前293年頃チャンドラグプタが死ぬと、彼の息子ビンドゥサーラが王となり更なる拡大を志向した。ビンドゥサーラの治世は記録が乏しい。彼はデカン高原方面へ勢力を拡大したとする記録があるが、実際には既に制圧済みだった領内各地で発生した反乱を鎮圧する一環だったとする説もある。ビンドゥサーラの息子に史上名高いアショーカがいた。ビンドゥサーラはアショーカと不和であり、タクシラで発生した反乱に際してアショーカに軍を与えずに鎮圧に向かわせたが、アショーカは現地の人心掌握に成功して反乱を収めたという伝説がある。
アショーカ王図紀元前268年頃ビンドゥサーラ王が病死すると、アショーカは急遽派遣先から首都パータリプトラに帰還し、長兄(スシーマ?)をはじめとする兄弟を全て(仏典によれば99人)殺害して王となったと伝えられる。しかしこれは王位継承の争いが後世著しく誇張されたものであるらしく、実際にはアショーカ王治世に各地の都市に彼の兄弟が駐留していたことがわかっている。とはいえ、彼の即位が穏便に行かなかった事は、彼が戴冠式を行ったのが即位の4年後であったことや、大臣達の軽蔑を受け忠誠を拒否するものが続出したという伝説などからもうかがわれる。アショーカ王は国内での反乱の鎮圧や粛清を繰り返しながら統治体制を固め、紀元前259年頃、南方のカリンガ国への遠征をおこなった。カリンガ国はかつてマガダ国の従属国であったが、マウリヤ朝の時代には独立勢力となっていた。
アショーカ王による最大勢力範囲ギリシア人メガステネスの記録によればカリンガ国は歩兵6万・騎兵1千・戦象7百を擁する一大勢力であったとあり、マウリヤ朝の中央インド統治にとって最大の障害であった。激戦の末カリンガを征服したが、この時の戦争で多数の人命が失われた(当時の記録によれば多数の徳のあるバラモンが死に、捕虜15万人のうち10万人の人が死に、その数倍もの人々も死んだとある。)。カリンガ国の征服によってマウリヤ朝は南端部を除く全インドと現在のアフガニスタンを含む巨大帝国となったが、アショーカ王はカリンガ戦争のあまりに凄惨な被害を目にして自らの行いを悔い、それまで信者ではあっても熱心ではなかった仏教を深く信奉するようになり、ダルマ(法)による統治を目指すようになったという。
誇張はあるであろうが、アショーカ王が仏教を深く信仰したことは数多くの証拠から明らかであり、実際カリンガ戦争以後拡張政策は終焉を迎えた。仏教に基づいた政策を実施しようとした彼はブッダガヤの菩提樹を参拝するとともに、自分の目指したダルマに基づく統治が実際に行われているかどうかを確認するために領内各地を巡幸して回った。アショーカ王の事跡は後世の仏教徒に重要視され多くの仏典に記録されている。
アショーカ王は晩年、地位を追われ幽閉されたという伝説があるが記録が乏しくその最後はよくわかっていない。チベットの伝説によればタクシラで没した。アショーカ王には数多くの王子がいた。彼らは総督や将軍として各地に派遣されていたがその多くは名前もはっきりとしない。そして王位継承の争いがあったことが知られているが、その経緯についても知られていない。いくつかの伝説や仏典などの記録があるが、アショーカ王以後の王名はそれらの諸記録で一致せず、その代数も一致しないことから王朝が分裂していたことが想定されている。